2017-10

読書エッセイ 文字の海を泳ぐ ブログ連載 第二十回 ティーンズノベル

 月二回のペースで続けてきたこの連載も、ついに今回で最後となる。毎回、含蓄があるんだかないんだかわからない(おそらく、まったくない)、デタラメなエッセイにお付き合いいただけたこと、心より御礼申し上げる。ありがとうございました。
 最終回のテーマとして選んだのは、「ティーンズノベル」である。これまでもたびたび触れてきた内容ではある。つまり、それほど、たびたび触れなければならぬほど、私の読書と、そして創作活動に、このティーンズノベルの存在は欠かせないものなのだ。
 私がティーンズノベルを「主食」としていたのは、小学五年生から高校二年生くらいまでの、およそ七年間。あのころの私は、テレビの中のアイドルより、クラスの中のカッコイイ男の子より、ティーンズノベルの中で感じられる「魂の揺れ」に夢中だった。
 読んでいたティーンズノベルは主に、講談社ティーンズハート及びホワイトハート、集英社コバルト文庫だ。角川富士見ファンタジアや電撃文庫も読んだけれど、こちらはティーンズノベルとは呼ばず、ライトノベルというくくりにしか入らないであろう。
 これらのレーベルから出されていたティーンズノベルの、一体何が私を惹きつけ、揺さぶっていたのかということについては、実はあまり明確には語るつもりがない。あれは「あのころの私」だけが体感できた「揺れ」なのだと信じているし、他の誰とも共有できないものだという確信がある。それは、たとえ「今の私」であっても。
 今になって思い返してみれば、夢中で読んだティーンズノベルの中には、(大変失礼ではあるが)どうしてこれが出版されて金銭と交換されていたか、と思ってしまうようなレベルの文章と内容のものが多々あった。けれど、そんなことを脇にのけてでも読まずにはおられなくさせるような、読んだ後のため息が、中学生のものなのにちょっと色っぽくなってしまうような、そんな力が、間違いなく、あれらの本にはあった。どんな名作も、この揺れと色っぽいため息についてはティーンズノベルに勝つことはできないと思う。少なくとも、あのころの私にとっては。
 もちろん、ティーンズノベルであっても(という言い方は嫌なのだが)、素晴らしい文章とストーリー構成をされる方はたくさんいらっしゃって、そのウチの何名かの作品はティーンを卒業して久しい今でも、ずっと、読み続けている。
 もう二度と味わうことができないであろう、「揺れ」の記憶を大切に抱いて、私は、今度は自分が「色っぽいため息を誰かにつかせる」ことを目指している。

 きっと、いや、間違いなく、私はこれから死ぬまで、読むということをやめないだろう。やめたいと思うかどうかも疑わしく、やめたいと思ってやめられるかどうかも怪しい。そんな読書生活の中で、またこうしてエッセイになるような種を見つけられたら幸せである。二十回の連載を続けさせていただくことができ、誠に嬉しく思う。これからもどうぞ皆さま、素晴らしい読書生活をお過ごしいただきたい。

読書エッセイ 文字の海を泳ぐ ブログ連載 第十九回 文豪

 つばめ綺譚社五周年記念の期間限定、と銘打って始められたこの読書エッセイのブログ連載も、今回を含めて残すところあと二回となった。回が進むごとに、とりとめのなさというか、好き勝手に書いている様子があらわになっておりお恥ずかしい次第だが、もうしばらく、お付き合い願いたい。
 今回は、テーマを「文豪」とした。文豪、と聞いてまず思い浮かぶのはどの名前であろうか。夏目漱石?森鴎外?芥川龍之介?ドストエフスキー?トルストイ?今挙げた五人は、作品を読んだことがあるかどうかはともかくとして、誰もが名前を聞いたことがあるであろう。……そう、作品を読んだことがあるかどうかはともかくとして。
 読書好き、活字中毒を自負している人であっても、文豪と呼ばれる作家の作品をひとつも読んだことがない、という方は多いらしく、私の知人・友人で考えてみても確かに、少なくはない人数がそうである。それを、嘆かわしい、と言ってしまうのはどうにも上から物を言っているようで嫌だが、寂しいことだ、とは思う。
 では、なぜ、読書が好きな人であっても文豪の作品を避けて通るのだろう。理由としてもっとも多く挙げられるだろうと予想されるのは、「難しそうだから」である。何十年も、あるいは百年以上も読み継がれ、売れ続け、名を残している作品なのだから、きっと良いのだろうとは思う、思うけれど、開いてみたときのあの文字の羅列の雰囲気は、いつも読んでいる現代小説やライトノベルとは明らかに違う……、だから尻込みしてしまう……、というようなところだろうか。
 確かに、普段は使わない、それどころか見たこともないような熟語がたくさん使われ、あらすじを読んでもどんなストーリーなのかいまひとつわからず、変な口調や奇抜な恰好で個性を見せるような登場人物はほとんど出てこない、となれば、敬遠したくなる気持ちもわかる。
 だが、難しい熟語や引用部分には必ず注釈がついている(発表当時の古書をわざわざ選べば話は別だが)し、あらすじを読んでわからないということは、それだけでまとめることが不可能な込み入ったストーリーがあるということなのだから全編を読み通せばいいし、変な口調や奇抜な恰好だけが個性だと思っているのならそれはそもそも大間違いだ。
 つまり、文豪の作品を避けて通ろうとする理由は正確には「難しそうだから」ではなく「〝難しそう〟という問題点を乗り越える手順が面倒だから」なのである。わざわざ注釈のページを参照しながら読むのも、すぐには先の見えてこないストーリーを追うのも、確かに億劫ではある。けれど、その手順を面倒がって素晴らしい作品を味わう機会を逃しているのは、非常にもったいないことであると思う。
 と、いうようなことをいくら切々と書いたところで、読む人は読むし、読まない人は読まない。これだけのことを書いておきながら、私も敬愛する漱石の作品をまだ全作品の三分の一程度しか読めていないのであるから、活字中毒の先輩方には笑われてしかるべきである。
 まだまだ読めていないものがたくさんある、というのは情けないことではあるが、これからまだ素晴らしい作品を読むことができる、と思えばそれは喜びでしかない。なんせ、相手は何十年も、あるいは百年以上も読み継がれ、売れ続けてきた名作だ。きっと良いに違いない。

読書エッセイ 文字の海を泳ぐ ブログ連載 第十八回 時と場合

 いつ、どこで、どのようにするのがもっとも読書にふさわしいのか、いまだにわからない。
 この場所でなければ、こういう状況でなければ、読書はできない!というようなこだわりは、ほぼ持ち合わせていない人間である。いつだってどこだって本は読める。だからこそ、いつどこでするのが読書にはもっともよいのか、ということになると、容易には答えを出せない。
 洒落た静かな喫茶店で、美味しいコーヒーを飲みながら、ゆっくりとページをめくる、というのが理想ではある。年に何回か、わざわざそういう場所で読書の時間を取ることもある。だが、「ではそれが読書にもっともふさわしい環境なのか」と訊かれると、いや、それはどうだろう、とも思ってしまう。自宅の南向きの窓の下にできた陽だまりに身をひたして没頭する読書もたまらなく甘美だし、布団にぬくぬくとくるまって本を開くのも幸せだ。私はたまにしかやらないが風呂に持ち込むのも好きだし、遠出する際の新幹線の車内や日々の通勤電車の中でも喜んで読む(ただし車酔いするのでバスは無理)。
 こうして時と場合を並べ立ててゆくと、どうにも「こうするのが一番だ!」と言えなくなってきてしまうのだ。どんな場所でもどんな時でも、持っていればつい開いて読みだしてしまうもの。それが活字中毒にとっての本だ。この、「つい開いて読みだしてしまう」がなかなか困りものだということは、どなたさまも想像に難くないであろう。たとえば、天気の良い休日に、部屋の掃除をしようと決めたとき。大量に本棚に押し込められ、さらには本棚の前に積み上がった本を片付けようとなどしたら!もうおしまい!「つい開く」という行為が牙を剥く。一度読んだ本であるのに、とかそんなことは関係なく、ついつい読みふけってしまい、気が付いたときには掃除など少しも進まぬまま日が暮れている。年末の大掃除のときなどにそれをやらかしてしまったときの、後悔を通り越した絶望感はもう、物凄い。時と場合を考えろ!と自分に怒鳴ってしまいたくなる。けれども、そうした読むべきでない時に読んだ本に限って「物凄く良いものを読んだ!」という気がしてしまったりもするのだ。まったく、活字中毒者とは愚かな生き物である。
 もっと人を呆れさせるのが、朝、出かける前、という百パーセント時間がないというときにすら本を開いてしまうことがある、という、にわかには信じがたい愚行の歴史である。これは主に高校生の頃に多かった。昨夜ギリギリまで読んでいた本を、朝またギリギリに起きているにもかかわらず、布団の上で開いてしまう。結果、自転車を全力疾走させて登校する羽目になり、ギリギリセーフ。ときにはアウト、遅刻決定。まったく、阿呆としか言いようがない。
 このような愚かさを軽減させるためにも、読書をするべき時と場合はある程度決めておいた方が良いのだろう。そうは思いつつも……、私は今日も片付け途中の部屋の中で本を開いてしまう。

読書エッセイ 文字の海を泳ぐ ブログ連載 第十七回 読書仲間

 読書とは基本的に、ひとりでするものである。子どもへの読み聞かせなどは別にして、ひとつの本を同時に複数のもので覗き込んで読む、なんてことをしたことのある人は、おそらくいないであろう。そうであっても、読書経験を共有することはできる。本連載でも募集させていただいた、おすすめをいただくという方法もそのひとつであろう。そのおすすめを、年中、ひっきりなしにして本に関する情報交換や論議を取り交わすような「読書仲間」というものについて、今回は少し書かせていただきたいと思う。
 読書という「ひとりで書物の世界を飲み込む素晴らしい行為」を、共有するだなんて勿体ない、邪道だ、読書への冒涜だ、という方もおられるかもしれない。その気持ちもよくわかる。読書はひとりでいられる最高の手段であると同時に、ひとりなのに世界の一部になれる稀有な行為だ。
 だが、私の読書経験において「読書仲間」は実に重要な位置を占めているのである。もともと好きであった読書に、さらにのめり込むようになったのは、この「読書仲間」によるところが大きい。
 私にとっての初めての読書仲間は、小学五、六年生の頃に仲良くしていたマユちゃんとナホちゃんである。毎週土曜日、三人連れだって近所の市立図書館へ行くのがお約束だった。待ち合わせは午後一時、図書館のある公園の噴水の前。ふたりとも、私よりはるかに大人びていて、賢く、本もたくさん読んでいた。私が本を読む理由はもちろん本が好きだったからだが、彼女たちに少しでも追いつきたいという思いも、その当時は強かったように思う。彼女たちがすでに読んだ本を追いかけるばかりでなく、新たな本を自分から発掘しておすすめすることで対等な関係を築こうとしていた。
 そうして読書量を増やした私は、中学に上がってから、新たに読書仲間を得た。マユちゃんとナホちゃんとの仲が悪くなったわけではない。単に、クラスも部活も別々になって話したり遊んだりする機会が減っただけである。ローティーンの友人関係には、ままあることだ。今度の読書仲間の間では、私がマユちゃんやナホちゃんの立ち位置にいた。ティーンズノベルのめぼしいシリーズを、こぞって読みつくしていくその先頭に、私は間違いなく立っていた。驚くほどに優越感はなく、ただ、物語の世界について語り合えることが嬉しくてたまらなかった。
 このような読書仲間に囲まれていたからこそ、私は読書を続けてきたのかもしれない、と思うこともあり、それはおそらく一因であるだろう。だけれども、ふと気が付くとその読書仲間たちがいつの間にか姿を消している、ということも、何度も経験している。彼女たち自体とは、今も付き合いがある方が多いし、仲良くもしているが、今も昔も熱心に読書をし続けている方は、ごく少数だ。寂しくはあるが、そういうものかな、とも思う。年を重ねれば、読書という「生きてゆくにはあってもなくてもいいもの」は後回しになるものだし、後回しにし続ければもちろん、本を読む習慣は薄れてゆく。そして皆言うのだ、「本か、昔はたくさん読んだものだなあ」と。
 そういう寂しさを感じていたときに、ツイッターやブログで「本の話ができる」ということを知った。今月出たあの本が、とか、ようやくこのシリーズを読み始めた、なんていう呟きが流れてくると安心した。ああ、世の中には、まだまだたくさん、本を読む人たちがいるのだなあ、と思うと嬉しくなった。
 これまでの読書仲間も、これからの読書仲間も、私の読書経験に欠かせない人たちである。

読書エッセイ 文字の海を泳ぐ ブログ連載 第十六回 再読

 私は、今も昔も乱読タイプである。
 ジャンルにこだわらずなんでも読む、というのは常々申し上げていることだが、これがまず乱読に走る要因であろう。
 無節操な乱読には驚くほど一貫性がない。流行のベストセラーにすぐ飛びつくというわけでもなければ、名作と呼ばれる作品を網羅しているわけでもなく、崇拝している作者の作品ですら読んだことがないものもある、という具合である。
 要するに、目についたもの、気になったものをそのときどきの気分で紐解いているわけで、私が自分自身の読書を「趣味の域から出られていない」と自覚している所以もこのあたりにある。
 そう。読書を学問の領域に置くには、再読がなければならないのだ。
 もちろん、再読の経験が皆無だというわけではない。曲がりなりにも、文学部国文学科に在籍していたことがある身である。テクストの熟読・熟考は欠かすことのできない手順である。むしろそれがすべてだと言っても過言ではない。
 だが、それは熟読・熟考した先にゼミ発表やレポート、卒論が待っていたからこそできたことなのだ、というのは、大学を卒業してから実感している。
 大学へ入る前の乱読状態にあっという間に戻ってしまったのである。
 繰り返し読むことの素晴らしさも重要さもわかっている。再読したいと思う本は山ほどある。だけれども新しい話が読みたいという欲望に勝てないのだ。
 再読を逃してまた、読んだことのない本へ手を伸ばすたびに思う。ああ、一日中、一年中、一生、本を読むことに時間を使えたならば、どれだけでも再読ができようものを、と。
 そんなことは不可能であるし、よしんば、本当に一生読むことに時間を使えるとしたところで、乱読の姿勢が治らないかぎりは再読に踏み込むことはできないであろう。
 乱読の姿勢を再読に傾けるにはどうしたらよいのか。それをご存じの方は是非とも、是非とも、ご教授いただきたいと願うのだが、治らないまでもふっと再読できるときが、実はある。
 作品の映像化が決まったときである。
 小説と映像化の関係性についての考えは第五回の「原作」で少し述べているが、私は原作を先に読むのも映像を先に観るのもどちらにも楽しみがあると思っている。
 ただし、ではどちらを先にしようか、などと迷うことができるのは、原作の映像化が決まった時点でまだ原作を読んだことがなかった場合に限られる。映像化よりもはるかに先に読んでしまっていた作品については、映像を後に見るしかない。
 けれども、はるかに前に読んでしまっている作品だからこそ、映像化を機会に読み返してみようか、という気持ちが起きるのである。最近、その映像化がきっかけで再読した例は、有川浩『図書館戦争』がまず挙がるだろうか。本当にごくごく最近のことであるが、年始のスペシャルドラマが放映されたのを機に夏目漱石『坊ちゃん』も久しぶりに再読した。
 再読の目的は、原作と映像の表現の差を比較するためでもあれば、単にあらすじを思い出しておきたいだけのこともあるが、どの場合においてもまず間違いなく、初回とは違う発見があるし、初回よりも詳しくテクストに当たることができる。
 そして、ああやはり再読はするものだなあ、と思うのである。
 それなのに、次の日にはまた、新顔の書籍に手が伸びている。まったく、どうにかならないものか。

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

紺堂カヤ(華夜)

Author:紺堂カヤ(華夜)
文筆家。
日々悪戦苦闘、ただしマイペースに。
文学と声をこよなく愛する。
二つ名は「筆舌破天候ガール」
創作サークル「つばめ綺譚社」にて小説を書いています。
また、クラウドゲート㈱のWTRPG「ファナティックブラッド」にてシナリオをリリース中。

メールフォーム

文章のお仕事依頼についてはこちらからお願いします。 お名前とご連絡先は必ずご記入ください。 (読書会のお申込みもこちらです)

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (2)
にちじょー (17)
映画 (4)
つばめ綺譚社 (21)
創作 (12)
舞台 (3)
読書エッセイ『文字の海を泳ぐ』 (21)
お知らせ (6)

リンク

このブログをリンクに追加する