2017-08

物語「が」居場所、物語「の」居場所

ふとしたことがきっかけで、物語に関連する「居場所」のことを考える機会を得ました。
誰のためになるとかそんなことではまったくなく、ただとりとめもなくつらつらと考えてしまったことを、少しここに書き記しておこうと思います。
論文のように結論が出ているものでもなければ、読書エッセイのように読み物として書くものでもありませんので、あまり面白くはないかもしれません。
そんな自己満足な語りですけれども、お付き合いいただけるという方は、どうぞよろしくお願いいたします。
以下、その語りは「です、ます」を廃した文体で書かせていただきます。

さて。
ここで扱う「物語」とは、すでに完成している「本」のことを指す。別に紙媒体である必要はなく、電子書籍だろうとネット掲載だろうとそれは構わないのだが、「読まれることを前提にして書かれたもの」という意味でのみ扱わせていただきたい。広辞苑の記述を借りるならば「作者が見たことや聞いたことや、または想像を基礎とし、人物や事件について叙述した散文の文学作品」となる。
とはいえ、これは論文ではないので、「物語」という言葉で思い浮かべられる定義が人によってそれぞれ幅を持っていたとしても特に問題はない。
前置きが長くなったが、物語に関連する「居場所」とはどういうことかについて、述べていきたい。
私は、誰かが書いた物語を読むときも、自分で物語を書くときも、物語を「居場所」と捉えている。
物語を読むときには、物語の中に自分を埋没させ、普段寝起きしている大地(いわゆる現実というやつ)から足を離す。現実にいたくない、と思って別の居場所を探すこともあれば、別にそんなことは考えていないのにいつの間にか大切な居場所になっていたこともある。
物語を書くときには、白い紙の上に座って、そこに描きたい家、街、国を作っていく。ときには宇宙、またときにはそんな単語では言い表せないどこかとても深いところを。そして書きながら、そこを走ったり、そこで寝たりする。書き終わったあとも、定期的に降り立ってはそこですごす。
そうして書いた私の「居場所」を私以外の人に読んでもらうときというのは、そこが私だけの居場所ではなくなるときだ。ちょっとだけ立ち寄って去っていく人もいるだろうし、長く滞在してくれる人もいたりする。立ち去ったと思った人がまた戻ってきてくれることもあるようである。
そういう捉え方をしていたので、物語「の」居場所を探す方がいると知ったときには少々驚いたものである。以下で述べる物語の「居場所」は、「きっとこういうことであろう」と私が勝手に解釈した内容であるので、他者の考えと差異があるかもしれないことを前提にしていただきたい。
自分が書き、発表した物語について、他者に読んでもらうことで、物語はその読者の中に居場所を得る。読んでもらうだけでなく、お気に入りの一冊にしてもらえれば、さらに揺るがぬ居場所を得ることになる。
読者の数が増えればそれだけ多くの居場所を得ることになり、物語に強く思いを抱いてもらえればもらえるほど、強固な居場所を得ることになる。
……おそらく、そういうことであるのだろう。
なるほど、そう考えると、私の中に居場所を得ている物語もいくつかあるのだろうと思う。だが、人の心は狭いので、たったひとつの物語にすら、完全なる居場所を与えることは不可能なのではないかと思う。せいぜいが、断片だ。それも、いくつも抱えておくことはできないので、中身は定期的に入れ替わる。もちろん、長年ひとつだけをずっと抱えていることもあるのだろうが。
とても抱えていることができないので、私は物語を抱え込まず、その物語を自分が必要としたときに訪れることにしている。つまり、はやり、私にとって物語「が」居場所なのだ。
自分が書いた物語にしても、他者の中に居場所を求めることはないと言える。物語に、居場所はなくていい。それではあまりに可哀想ではないかと思う人もいるだろうが、私の物語はそれでいい。作者である私だけは、その物語を忘れないからだ。ただし、自分で書いた物語であっても抱えておくことはできないので、必要な時に訪れるための居場所となる。作者以外にも、居場所として利用してくれる読者さまがいらっしゃるのならば、大変大変ありがたく、嬉しい。

書いて、公開する以上、多くの人に読んでもらいたいと思うのは当然である。
しかし、物語を読んでもらいたいと思うことと、物語に居場所を与えたいと思うこととは私の中ではイコールにならない。
私は書く人間であると同時に、いや、書く人間である以前に読む人間であるので、その人にとって特別な一作になるということがどれだけ難しいかということを読者の目線で理解している。唯一無二ともなればさらにその難易度は上がるだろう。しかも、どれだけの名作を書けばよいという基準はない。その人にとっての「特別」の基準はその人の中にしかないからだ。
その基準のないところに、居場所を求めるというのは、あまりに苦しいような気がする。そこで苦しむくらいなら、私は物語を書くことに対して苦しみたい。

ずいぶん長々と書き連ねてしまったが、やはり私にとって物語は居場所であるのだ。
自分も居場所を点々と廻り、そして自分の書いた物語も誰かにとって立ち寄りたいと思ってもらえる居場所であってほしい。
そう思いながら今日も、紙をめくり、ペンを走らせる。


お恥ずかしながら読んでいませんでした日記③ 一千一秒物語

稲垣足穂は読んでおくべきだ。
と、そのように自分で決定付けてから、なんと十年が経過しています。年月の話を持ち出しておいて何ですけれども、この際に私が現在いくつなのかということは関係がないので詳しく追わないことにします。
とにかく、読みたいと思っていたくせに十年もかかってしまった、という、私の情けなさを露呈する前置きから始めましたけれども、今年中に読むと宣言していたうちの一冊『一千一秒物語』を読みました。
まずは一言で申し上げると。
やはり読んでおくべきだった。
でしょうか。確信を持ち、決定付けた自分は間違っていなかったとかそういうことはいいとして、何が一番そう思わせたかというと「誰にもどうしようも真似できない」という点です。
一見、「私でも書けそう」と思ってしまいそうな、短い物語が並んでいるのですけれど、どれひとつとして真似することはできないのです。
洒脱さ、皮肉、気迫。孕んでいるものは様々ですが、一貫しているのがそうした「内包された要素」を受け取れていると思うことが思い上がりなのではないか?という疑惑が拭えないことです。
右往左往で「一秒」を繰り返すうちに終わっている。読み終わったけれど、読み終わって立っているこの場は、きちんとゴールなのかもわからない。
私は読んでいる間、とかくそういう混乱を味わいました。
しつこく登場するモチーフは月、少年、猫。
それらに単純にわくわくさせられつつも、不安と疑問と混乱を持たされていたわけです。
読んでおくべきだ、と決定付けてから十年が経過した、と書きましたけれども、十年前に読んでいたらただ「変な話」として片付けてしまったかもしれず(それはそれでいいんだけど)、そういう意味では、十年越しの今こそが、私が足穂を読むタイミングだったのかもしれません。

今回私が手に取ったのは新潮文庫版で、他の作品もたくさん収録されていたのですが、私はその中で特に『黄漠奇聞』が好きでした。ゾッとする空気。美への執着と狂気。たまらないですわ……。
次は十年もかけずに、別の作品も読みます。

神の子

気が付いたら六月になっていました。
この「気が付いたら」というのをなんとかやめたいものです。もっと意識的に季節を迎えたい……。
ええと、そんなことより。
本日は、羽海野チカ原作マンガを実写化した、映画『3月のライオン』の感想を、大変遅まきながら書かせていただこうと思います。
前編・後編あわせての感想になる上、原作・映画ともにネタバレには一切配慮しておりませんので、どうぞご了承くださいますようお願いいたします。
原作と映画を比較しながらの書き方になるものですから、どうしても、伏せてはおけないのです。ごめんなさい。
もちろん、個人的な感想ですので何か的外れなことを言っていたとしても笑って流していただけたらと思います。

若干前置きが長くなりましたが。
結論から申し上げて、とても良い映画でした。
私は原作の『3月のライオン』を連載開始当初から読んでおり、本当に大好きなもので、実写映画化が決まったときも「半端なもの作ったら承知しねえぞ!?」みたいな思いを抱いておりまして(何様なんだよ!)。
キャスト発表があったときにはその懸念もほぼ解消されていたのですが、実際に映像を観て改めて思いました。

神木隆之介は神の子だ。

ええ、もう、本当に、素晴らしかったんです。神木くんが演じる、桐山零が。
暗い表情も、将棋をさすときの真剣なまなざしも、激高する叫びも、あわてるしぐさも。
原作の桐山零がそのまま出てきた、というよりもさらに、現実世界にきちんと照準をあわせて顕現した、というような姿でした。
素晴らしかったです。

「現実世界に照準を合わせている」というのは、神木くんの演技だけでなく、この映画全編において丁寧になされていたと思います。ここが、私がこの映画を高く評価する大きなポイントでもあります。
原作はマンガですから、「紙面だからこそ面白いと感じるノリ」や「マンガだからこそ許される設定」が随所にあります。
猫を使ったギャグや、桐山くんの矢継ぎ早のツッコミ、みたいなものがその代表ですが、これをそのまま実写でやってしまうと、大げさすぎて空回り必至、という大コケ案件になっていたこと間違いなしです。アニメは忠実にやっていましたが、あれもアニメーションだったから良かったこと、なのです。だって現実にはありえないもん。
そこを上手に削り、しかし一切なくすようなことはしないで、川本家の会話の雰囲気の中に残す、という撮り方をしていました。とても上手かったと思います。
設定の変更で上手いな、と思った部分を前編でひとつ挙げるとすると、あかりさんが働いているバーについてでしょうか。
原作マンガでは「もともと棋士の皆さま御用達のバー」という設定でしたが、偶然知り合ったはずのあかりさんが働いているバーが、偶然棋士御用達だった、なんていうその「偶然の重なり方」はマンガでは許されても現実ではかなり不自然です。そこを、桐山くんが先輩(スミスさんたち)を連れて行ったことによって棋士の皆さまが通うようになる、というのはかなり納得できる設定変更だったな、と思います。
これに通ずるところですが、桐山くんにお酒を飲ませて放置した「悪い先輩」が実はイコール、スミスさんたちだった(本人たちに悪気はない)という偶然の置き方についてもまた、上手いなあ、と思いました。こちらは現実でもありがちな偶然(というよりは視点の違いで起きる解釈違い)かな、と思います。
後編でもひとつ挙げるのならば、妻子捨て男こと川本家の父(演じている伊勢谷友介さんがまた凄いんだこれが!)に対する桐山くんの対応。
対応、というか、対応に対する川本家の反応ですね。原作マンガでは、最終的な決断と解決はあかりさんたちが自分でやるものの、桐山くんの華麗なぶちのめし方も感謝されてるんですよね。でもあれって相当にデリカシーのないことをしているわけで、原作マンガのあのノリでなら許されるけれど、現実でやられたらそりゃあ血縁者としてはたまらないよな、と思うんです。そこも濁さずにきちんと描いて、そして桐山くんをきちんと謝らせる、というところまで始末をつけているのは素晴らしいな、と思いました。

もうひとつ、この映画を高く評価する大きなポイントは「原作マンガの描いている画角にこだわっている」というところです。
ちょっとしたしぐさとか、人物の顔をどの方向から撮るかというのを、かなり原作マンガに照らし合わせて決定しているな、と思いました。
「それマンガで見た、あのコマだー!!!」というのがいくつもあって感動しました。
一番テンション上がったのは桐山くんのお家に押しかけた香子さんが、お風呂で足を温めているところ。脚の伸び方も髪の押さえ方も完璧ですげえええ、と思いました……!そして全編通して、有村架純ちゃんの演技とても良かったです。

島田さんと後藤さんの対局をガッツリやってくれたことも、島田さんと宗谷の対局もしっかりやってくれたことも、物凄く良かったですね……、骨太に仕上がっていました。
この大人の男性陣の素晴らしいことといったら!佐々木蔵之介さんはもう素晴らしく色気があって島田さんの幸が薄そうなところもちゃんと表現していて惚れるしかなかったですし、伊藤英明さんは私が今まで見てきた伊藤英明さんの中でダントツのはまり役だと思いました(あくまで個人的見解)。

もっともっと語れるんですが、ちょっと長くなりすぎるのでこのあたりにいたしますね……。
前編・後編に分かれているということでなかなか観に行きづらい映画にはなっていたのかな、とは思いますが、作品としては本当に良い映画になっていたと思います。
もう一度言いましょう。

神木隆之介は神の子だ。

お恥ずかしながら読んでいませんでした日記②『外科室』

2017年中に読む、と定めた「いつか読もうと思っているが読めていない本」の中の、第二冊目でございます。
前回一冊目として報告をあげたのが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という大長編でございましたが、今回は打って変わってごくごく短い短編でございます。
泉鏡花『外科室』。
以下、「今更お前ごときに言われるまでもないことだ」というような感想が書き連なってございます。どうぞご容赦くださいますよう、平にお願い申し上げます。

本当にお恥ずかしながら、わたくし、泉鏡花をきちんと読んだことがございませんでした。
作家の生い立ちや経歴についての知識はありましたし、実に有名な作品ばかりですから、作品のあらすじだけは知っている、というものは多くありました。ですが肝心の作品文章そのものをしっかり読んでおらず、いわゆる「知っているつもり」でいたというわけでございます。
それではいけない、いけないというかもったいない、というわけで、このたび金沢の「泉鏡花記念館」を訪れる予定になっていたこともあり、きちんと読みました。
数ある鏡花の作品の中で、なぜ『高野聖』でもなければ『婦系図』でもなく『外科室』だったのかというと、これはもうごく単純な理由です。あらすじがもっとも、心魅かれるものだったからです。(今後『高野聖』等も読んでいく所存ですが!)
あまりに有名な作品ですので、もはやネタバレも何もないと思ってどんなお話であるかを簡単に書いてしまうと、『外科室』は胸の手術をする伯爵夫人が、手術の際に麻酔をしないでほしい、と言う。理由は、「麻酔で眠っている間にうわ言で秘密を話してしまうかもしれない」から。秘密、それは伯爵夫人の恋心……。
ストーリーという意味で言えば、これでほぼすべてです。なんともあっさりしたあらすじになってしまうのですが、あらすじ以上のものを受け取るにはやはり、本文を読まなければなりません。
そう、あらすじだけを知っている、「知っているつもり」になっていた私に、見事に往復ビンタをかましてくれました。
限界までそぎ落とされたエピソード、選び抜かれた言葉と考え抜かれた文章。それらによってつむぎだされる、濃厚な一瞬の美しさ。
先程、「伯爵夫人の恋心」と書きましたが、本文中にはそんな無粋な表現はしてありません。はっきりと「こうだったのだ」という言葉のないままに進むのに、いかにも強く読者を揺さぶり、苦しくすらさせるのです。
もう、もう、本当に素晴らしくて、感想を書けば書くほど、あまりの伝わらなさに自分の力不足を痛感します……。
今まで読んでいなかったことを恥ずかしく思うと同時に、けれど、たとえば学生時代に読んでいたとして、これだけの感動を覚えることができただろうかというのはいささか疑問ではあります。学生時代の私の読書は、文章や言葉選びよりもストーリーに重点を置きがちだったからです。それを思うと、このタイミングで読むことになったのも単なる「今更」ではないような気もします。
なお、今回私が読んだのは岩波文庫の『外科室・海城発電 他五篇』でございました。そこに収録されていた作品、どれもとても良かったです。『義血侠血』は特に良かった……。
読んでいなかった、ということを恥じつつ、これからも書き連ねていく「お恥ずかしながら読んでいませんでした日記」ですが、このまま、読まぬまま、死んでいくよりは今更でもなんでも読んだほうがいい、と改めて思った次第でございます。

今更でもなんでも、鏡花のほかの作品も、どんどん読んでいこうと思います。

第二回まどろみ読書会 開催報告

毎年のことではございますが、五月に入ると一気に暑くなりますねえ。
この前まで桜が咲いていたはずなのに、というようなことを言うと途端に年寄りくさくなるのでできるだけ差し控えますが、なにはともあれ、五月でございます。
先月末4/30は名古屋コミティアに出店をしておりました。そちらの報告はサークルブログ「Web版つばめ報」に書かせていただきましたのでそちらをご覧いただくこととして、こちらではその前日に開催いたしました、紺堂カヤ主催「第二回まどろみ読書会」の内容をご報告いたします。

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今回、参加者はカヤを含めて四名でした。
遠路はるばる駆けつけてくださった方もいらっしゃって、大変恐縮でございました、ありがとうございます。
前回同様、また、あらかじめお知らせしていたように、課題図書等は一切定めず、「おすすめの本」を持ち寄り、本の話をする、という形の読書会でした。本のおすすめをしなければならない、というきまりも作りませんでしたので、本のおすすめをする人もいればひたすら聞いている(でもちゃんとおしゃべりはしてましたよ!)という自由な空気の読書会となりました。
今回紹介していただいた「おすすめ本」は以下の八冊となります。

第二回「まどろみ読書会」オススメ本(順不同)
正岡子規『病牀六尺』
乃南アサ『凍える牙』
辺見庸『もの食う人びと』
いしいしんじ『ぶらんこ乗り』
村田紗耶香『コンビニ人間』
平岩弓枝『花のながれ』
松井今朝子『吉原手引草』
原田マハ『ジヴェルニーの食卓』

ひとつ紹介が上がり話が始まるたび、「それならこの本も」とか「この作家の場合は」とか関連して本の名前が出るわ出るわ。
みなさんたくさんメモを取って行かれたようです。
上記以外の本のタイトルは、参加者だけの特権とさせていただきたく思いますので公開しません。当日配布した冊子「紙の枕」の中身も、参加者さまだけが知り得るものとさせていただきます。
関連本の話ばかりでなく、紹介者がその本を読んだときの心情や個人的偏見という前提のもと繰り広げられる評価とか、面白い話がじゃんじゃん出てきて実に充実しておりました。
話すよりも聞く方が多かった、という方も「面白い話がたくさん聞けて楽しかった」と言ってくださり、読書会に参加した目的はそれぞれ個人で違うものを持ちつつも、全員に楽しんでもらえるものとなりました。
私も本当に楽しかったです。ありがとうございました!

次回は今年の十月を予定しております。
開催が決定となれば第三回となります。調子に乗ってきましたね、カヤが!(笑)
今回来て下さった方も、初めての方も、ぜひお誘い合わせのうえ、ご参加いただけたらと思います。

以下は少し余談になるのですが。
読書会の際、カヤが長年(ここ二年ほど)探している本の話になり。
ネットでなら手に入れられないことはないけれど、なんとなく、書店・古本店で直接手に入れたいので見かけたらご一報を、などと笑ってお願いをして解散になりました。
その後、参加者の何名かと連れ立って入った古書店で。
その本を発見したのです……!
その古書店、すでにこの二年間に何度も足を運び、そのたびに探していたのですが、目当ての本とは出会えず、だったのです。
が。その日に限って、棚に差さっていたというなんとも奇跡のような、巡り合わせを感じさせる邂逅でした。手が震えました。
きっと読書会という縁が引き合わせてくれたのだなあ、と思うと喜びは一層大きなものとなりました。
ありがとうございました。

さあ。皆さまのおすすめの本を読もう。


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プロフィール

紺堂カヤ(華夜)

Author:紺堂カヤ(華夜)
文筆家。
日々悪戦苦闘、ただしマイペースに。
文学と声をこよなく愛する。
二つ名は「筆舌破天候ガール」
創作サークル「つばめ綺譚社」にて小説を書いています。
また、クラウドゲート㈱のWTRPG「ファナティックブラッド」にてシナリオをリリース中。

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