2017-10

台風一過、大阪行った

イベントにかかわらず、もっとこのブログどんどん更新したいんだけどな。くだらないこととか書きたいんだけどな。
と、言いつつ、今回はまたイベントについてです。
あまぶんから一か月もたたぬうちに、また西の方へ行って参りました。
文学フリマ大阪です。
9/18(月祝)開催。会場は例年通りの、中百舌鳥。
台風が心配された日で、前日はかなりの風雨だったんですけれども、文フリ当日はさっぱりと晴れて、まさしく台風一過といった天気でした。
と、いうような、概要的な報告や御礼はつばめ綺譚社のブログでさせていただきましたので、こちらではカヤの個人的なあれこれを少し書いておきたいと思います。

個人的なあれこれ、で一番最初に思い出すのは、文フリが終わってからのことです。
書き始めたばっかりなのに終わってからのことって、という感じなんですが。
帰りの高速バスに乗り遅れました。
ちょっと見込みが甘かったんです。地下鉄が、バス出発の4分前に到着する、という。全力疾走しましたけど、まあ、間に合いませんよね。
おバカでした。新幹線で帰ってきたので当初の予定より早く帰ってこれちゃったのがまたなんとなく悲しい気持ちになりました。
さて。
まあ、つまり、ちょっとでも長くいたいと思うくらい、文フリ大阪は楽しかったのです。
スペースにはカヤひとりでしたので、できるだけ出歩く時間を短くしようと急いで会場を巡ったりしました。その結果、迷ってしまったりしました。時間の節約になってない。
らしさんにご挨拶に行ったら「聞いてください!」と意気込んで言われ、どうしたんだろうと身構えたら「うそあまがないとすごくラクなんです!」と続けられて笑ってしまったり、
サークル「カラマーゾフの犬」さんに「ドストアンソロ、あまぶんで買いました!」とだけ言いに行ったり(それでも嫌な顔せずマシンガンロシアトークを繰り広げてくださいました、ありがとうございました)、
マツさんのスペースの前で憧れの犬尾さんにばったりお会いして急にあわあわしてしまったり、
にゃんしーさんの変身ぶりに驚いて「同一人物ですよね?え、コスプレですか、大阪っぽく、みたいな?」とよくわからないことを口走ったり。
時系列バラバラなんですけど、こんな感じでした。
つばめのスペースにもたくさんの方に来ていただきましてありがとうございました。
新島さんには、なんと、テキレボアンソロに寄稿した作品の感想を直接お伝えいただく、という!なんと嬉しいことでしょうか、ありがとうございました。びっくりしてしまって上手く返答できなかったのが申し訳ないです。
この、感想、というか問いかけ、に際してちょっと後日いろいろ考えたことがあるので、またこのブログで書こうかと思っています。(たぶん、とりとめのないことになりますが)
新刊が『繋ぎ屋台帳』の第二巻だったのですけれども、二巻だけ買っていかれようとする方に「あ、最初はこっちですが」と一巻を示したら「大丈夫です、そちらは前に買いました」と言っていただけたりもして感激しました。
続き物の、続きを楽しみにしていただけることは本当にありがたく、嬉しいことでございます。二巻刊行までに一年もかかっててすみませんでした……。
お友だちがサプライズで来てくれて、なおかつ、手作りのお菓子を差し入れてくれたり(めちゃ美味しかったですありがとう!)、嬉しい、とびっくり、が重なることが多かった感じです、今回。
リアクションが挙動不審でお隣のスペースの皆様にはご迷惑をおかけしました。50円玉切らして両替してもらったり……。本当にすみません、ありがとうございました。

そんなこんなで、あっという間でございました……。
楽しかったです。

次は、久しぶりの地元、名古屋コミティアでございます。
盟友・氷梨えりかさんとの合同誌、遊園地アンソロジー『OneDayPassport』が刊行となります。
遊園地の一日を、朝・昼・夕方・夜に分け、2本ずつ担当してとある一日を描く、という形式の一冊となっております。
名古屋コミティアで売り切れることはないと思いますが、ご心配な方のために「予約フォーム」を作りましたのでよろしければご利用ください。
予約フォーム

では。
名古屋コミティアでたくさんの方にお会いできることを楽しみにしております。

あまぶんぶんぶん

8/27(日)、尼崎文学だらけ通称あまぶんに行って参りました。
サークルとしての報告やご挨拶はつばめ綺譚社ブログ「Web版つばめ報」に書かせていただきましたので、そちらをご覧頂くこととして。
ここではカヤの個人的なレポのような感想のようなものを書き連ねさせていただこうと思います。
あまぶん、とても楽しみでした。一押し作品や推薦文のシステムはあるし、ポストカードの配信もあったし、主催者さまのこのバックアップの全力ぶり!頭が下がりました。
それだけに、楽しみでありつつも不安もありました。出店されるサークルさん同士の交流がすでに出来上がっていて、お互いの作品の推薦合戦が繰り広げられ、ツイッターでの宣伝RT合戦も白熱し……、という具合で、サークルの活動年数は長いものの、近年まで名古屋のみで細々と活動していた身としては「とんでもないところへ戦いを挑もうとしてしまったのでは……?」という気後れがありました。
かーびぃ氏ことひざのうらはやお氏が「あまぶんはスマブラのようだ」と仰ってましたけども、言い得て妙だと思いました……。
そんな中で、そういった交流とは別のところからの推薦文がいただけたことは、私にとってもつばめ綺譚社にとっても、とてもとても心強い、有難い出来事でございました。ハリちゃん、どうもありがとう!
そういうわけで緊張もありましたし、出店者なのに一読者のような気持ちも強くありました。あそこのサークルのあの作者さんにお会いできるぞ、とか、あのサークルさんの本がついに購入できるぞ、とか。
お隣のスペースが「午前三時の音楽」さんで、高梨來さんにご挨拶させていただけたことは、本当に、一読者として喜ばしいことでした。(『ジェミニとほうき星』、とても良かったんです)そればかりか、イラストと名前入りの差し入れを用意してくださっていてなんとも光栄でございました、ありがとうございました!
これまた一読者として楽しみにしていた「おとといあさって」さんの『嘘の町を出ていく』を購入できたことも嬉しかったですし、その隣で「嘘の尼崎を出ていく」(うそあま)を遊べたのも楽しかったです!2回もやりました(笑)らしさん、お疲れ様でございました。
「おとといあさって」さんばかりでなく、「だらけブース」はどこも個性的でとても面白かったです。テント建ってたし。そのうちコーヒーのいい香りし始めたし。テントの中の彩村菊乃さん、尊き雰囲気たっぷりでお声をかけられなかった……(チキンカヤ)。とかやってたら本も買い損ねました、お馬鹿。
いや、しかし、私、いつになくたくさんお買い物したんです。それでもなお、買い損ねた、買いたくても買えなかった本もあるとなると本当に、あまぶんで並べられていた本の上質さを考えさせられます。つたゐさんの本もまだ読んでないの全部買いたかったんですけどね、順番に、っていい聞かせてやめましたから。つたゐさんとはお会いする回数分だけちょっとずつ、仲良くお話させていただけるようになってる気がしてとても嬉しいです。えへ。
めっちゃ個人的な内容ばっかり!すみません。冒頭で個人的な、としたとおりです。お名前とかたくさん出していてごめんなさい。
閑話休題。
そんな素晴らしい本ばかり並ぶ中で、カヤの本を手に取っていただけたことは、本当に本当に有難いことでございます。
今回一番嬉しかったのは『手ノ鳴ルホウヘ』に関して「昨日の見本誌読書会で少し読んで『これは自分が書きたかったやつだ』と思いました」と言っていただけたことです。なんたる!なんたる!!大変有難いことでございます。最後までお楽しみいただけますように。
守護神・サクライを貼り付けたスペースの内側の祭壇も賑わっていてご利益への確信を新たにしました(笑)今回一緒に尼崎へ来てくれた妹(前日に、国立国際美術館の『バベルの塔展』へ一緒に行っていたのです)は徒歩7分の距離にある桜井神社へ行ったそうで、ご満悦でございました。

そうそう、これはつばめブログにも書いたことなのですが、カヤの歌集『たまに抱擁、ときおりナイフ』が残り1部となりました。再版はしません。通販、取り置き、先着で申し受けいたしますので、もし、ご希望の方いらっしゃいましたらお申し出くださいませ。

とりとめのないだらだらした文章になってしまいましたけれども、とにかく、とても楽しかったです、あまぶん。
主催のにゃんしー氏とあまりお話できなかったことと、朗読会や打ち上げに参加できなかったことが残念でしたが(会場を出たところでちょうど、打ち上げ用に配達されてきた、おすしとすれ違いました)、またの機会ということで……。
ええ、ぜひ「また」があってほしいなあ、と思います。
また、尼崎でお会い致しましょう。

物語「が」居場所、物語「の」居場所

ふとしたことがきっかけで、物語に関連する「居場所」のことを考える機会を得ました。
誰のためになるとかそんなことではまったくなく、ただとりとめもなくつらつらと考えてしまったことを、少しここに書き記しておこうと思います。
論文のように結論が出ているものでもなければ、読書エッセイのように読み物として書くものでもありませんので、あまり面白くはないかもしれません。
そんな自己満足な語りですけれども、お付き合いいただけるという方は、どうぞよろしくお願いいたします。
以下、その語りは「です、ます」を廃した文体で書かせていただきます。

さて。
ここで扱う「物語」とは、すでに完成している「本」のことを指す。別に紙媒体である必要はなく、電子書籍だろうとネット掲載だろうとそれは構わないのだが、「読まれることを前提にして書かれたもの」という意味でのみ扱わせていただきたい。広辞苑の記述を借りるならば「作者が見たことや聞いたことや、または想像を基礎とし、人物や事件について叙述した散文の文学作品」となる。
とはいえ、これは論文ではないので、「物語」という言葉で思い浮かべられる定義が人によってそれぞれ幅を持っていたとしても特に問題はない。
前置きが長くなったが、物語に関連する「居場所」とはどういうことかについて、述べていきたい。
私は、誰かが書いた物語を読むときも、自分で物語を書くときも、物語を「居場所」と捉えている。
物語を読むときには、物語の中に自分を埋没させ、普段寝起きしている大地(いわゆる現実というやつ)から足を離す。現実にいたくない、と思って別の居場所を探すこともあれば、別にそんなことは考えていないのにいつの間にか大切な居場所になっていたこともある。
物語を書くときには、白い紙の上に座って、そこに描きたい家、街、国を作っていく。ときには宇宙、またときにはそんな単語では言い表せないどこかとても深いところを。そして書きながら、そこを走ったり、そこで寝たりする。書き終わったあとも、定期的に降り立ってはそこですごす。
そうして書いた私の「居場所」を私以外の人に読んでもらうときというのは、そこが私だけの居場所ではなくなるときだ。ちょっとだけ立ち寄って去っていく人もいるだろうし、長く滞在してくれる人もいたりする。立ち去ったと思った人がまた戻ってきてくれることもあるようである。
そういう捉え方をしていたので、物語「の」居場所を探す方がいると知ったときには少々驚いたものである。以下で述べる物語の「居場所」は、「きっとこういうことであろう」と私が勝手に解釈した内容であるので、他者の考えと差異があるかもしれないことを前提にしていただきたい。
自分が書き、発表した物語について、他者に読んでもらうことで、物語はその読者の中に居場所を得る。読んでもらうだけでなく、お気に入りの一冊にしてもらえれば、さらに揺るがぬ居場所を得ることになる。
読者の数が増えればそれだけ多くの居場所を得ることになり、物語に強く思いを抱いてもらえればもらえるほど、強固な居場所を得ることになる。
……おそらく、そういうことであるのだろう。
なるほど、そう考えると、私の中に居場所を得ている物語もいくつかあるのだろうと思う。だが、人の心は狭いので、たったひとつの物語にすら、完全なる居場所を与えることは不可能なのではないかと思う。せいぜいが、断片だ。それも、いくつも抱えておくことはできないので、中身は定期的に入れ替わる。もちろん、長年ひとつだけをずっと抱えていることもあるのだろうが。
とても抱えていることができないので、私は物語を抱え込まず、その物語を自分が必要としたときに訪れることにしている。つまり、はやり、私にとって物語「が」居場所なのだ。
自分が書いた物語にしても、他者の中に居場所を求めることはないと言える。物語に、居場所はなくていい。それではあまりに可哀想ではないかと思う人もいるだろうが、私の物語はそれでいい。作者である私だけは、その物語を忘れないからだ。ただし、自分で書いた物語であっても抱えておくことはできないので、必要な時に訪れるための居場所となる。作者以外にも、居場所として利用してくれる読者さまがいらっしゃるのならば、大変大変ありがたく、嬉しい。

書いて、公開する以上、多くの人に読んでもらいたいと思うのは当然である。
しかし、物語を読んでもらいたいと思うことと、物語に居場所を与えたいと思うこととは私の中ではイコールにならない。
私は書く人間であると同時に、いや、書く人間である以前に読む人間であるので、その人にとって特別な一作になるということがどれだけ難しいかということを読者の目線で理解している。唯一無二ともなればさらにその難易度は上がるだろう。しかも、どれだけの名作を書けばよいという基準はない。その人にとっての「特別」の基準はその人の中にしかないからだ。
その基準のないところに、居場所を求めるというのは、あまりに苦しいような気がする。そこで苦しむくらいなら、私は物語を書くことに対して苦しみたい。

ずいぶん長々と書き連ねてしまったが、やはり私にとって物語は居場所であるのだ。
自分も居場所を点々と廻り、そして自分の書いた物語も誰かにとって立ち寄りたいと思ってもらえる居場所であってほしい。
そう思いながら今日も、紙をめくり、ペンを走らせる。


お恥ずかしながら読んでいませんでした日記③ 一千一秒物語

稲垣足穂は読んでおくべきだ。
と、そのように自分で決定付けてから、なんと十年が経過しています。年月の話を持ち出しておいて何ですけれども、この際に私が現在いくつなのかということは関係がないので詳しく追わないことにします。
とにかく、読みたいと思っていたくせに十年もかかってしまった、という、私の情けなさを露呈する前置きから始めましたけれども、今年中に読むと宣言していたうちの一冊『一千一秒物語』を読みました。
まずは一言で申し上げると。
やはり読んでおくべきだった。
でしょうか。確信を持ち、決定付けた自分は間違っていなかったとかそういうことはいいとして、何が一番そう思わせたかというと「誰にもどうしようも真似できない」という点です。
一見、「私でも書けそう」と思ってしまいそうな、短い物語が並んでいるのですけれど、どれひとつとして真似することはできないのです。
洒脱さ、皮肉、気迫。孕んでいるものは様々ですが、一貫しているのがそうした「内包された要素」を受け取れていると思うことが思い上がりなのではないか?という疑惑が拭えないことです。
右往左往で「一秒」を繰り返すうちに終わっている。読み終わったけれど、読み終わって立っているこの場は、きちんとゴールなのかもわからない。
私は読んでいる間、とかくそういう混乱を味わいました。
しつこく登場するモチーフは月、少年、猫。
それらに単純にわくわくさせられつつも、不安と疑問と混乱を持たされていたわけです。
読んでおくべきだ、と決定付けてから十年が経過した、と書きましたけれども、十年前に読んでいたらただ「変な話」として片付けてしまったかもしれず(それはそれでいいんだけど)、そういう意味では、十年越しの今こそが、私が足穂を読むタイミングだったのかもしれません。

今回私が手に取ったのは新潮文庫版で、他の作品もたくさん収録されていたのですが、私はその中で特に『黄漠奇聞』が好きでした。ゾッとする空気。美への執着と狂気。たまらないですわ……。
次は十年もかけずに、別の作品も読みます。

神の子

気が付いたら六月になっていました。
この「気が付いたら」というのをなんとかやめたいものです。もっと意識的に季節を迎えたい……。
ええと、そんなことより。
本日は、羽海野チカ原作マンガを実写化した、映画『3月のライオン』の感想を、大変遅まきながら書かせていただこうと思います。
前編・後編あわせての感想になる上、原作・映画ともにネタバレには一切配慮しておりませんので、どうぞご了承くださいますようお願いいたします。
原作と映画を比較しながらの書き方になるものですから、どうしても、伏せてはおけないのです。ごめんなさい。
もちろん、個人的な感想ですので何か的外れなことを言っていたとしても笑って流していただけたらと思います。

若干前置きが長くなりましたが。
結論から申し上げて、とても良い映画でした。
私は原作の『3月のライオン』を連載開始当初から読んでおり、本当に大好きなもので、実写映画化が決まったときも「半端なもの作ったら承知しねえぞ!?」みたいな思いを抱いておりまして(何様なんだよ!)。
キャスト発表があったときにはその懸念もほぼ解消されていたのですが、実際に映像を観て改めて思いました。

神木隆之介は神の子だ。

ええ、もう、本当に、素晴らしかったんです。神木くんが演じる、桐山零が。
暗い表情も、将棋をさすときの真剣なまなざしも、激高する叫びも、あわてるしぐさも。
原作の桐山零がそのまま出てきた、というよりもさらに、現実世界にきちんと照準をあわせて顕現した、というような姿でした。
素晴らしかったです。

「現実世界に照準を合わせている」というのは、神木くんの演技だけでなく、この映画全編において丁寧になされていたと思います。ここが、私がこの映画を高く評価する大きなポイントでもあります。
原作はマンガですから、「紙面だからこそ面白いと感じるノリ」や「マンガだからこそ許される設定」が随所にあります。
猫を使ったギャグや、桐山くんの矢継ぎ早のツッコミ、みたいなものがその代表ですが、これをそのまま実写でやってしまうと、大げさすぎて空回り必至、という大コケ案件になっていたこと間違いなしです。アニメは忠実にやっていましたが、あれもアニメーションだったから良かったこと、なのです。だって現実にはありえないもん。
そこを上手に削り、しかし一切なくすようなことはしないで、川本家の会話の雰囲気の中に残す、という撮り方をしていました。とても上手かったと思います。
設定の変更で上手いな、と思った部分を前編でひとつ挙げるとすると、あかりさんが働いているバーについてでしょうか。
原作マンガでは「もともと棋士の皆さま御用達のバー」という設定でしたが、偶然知り合ったはずのあかりさんが働いているバーが、偶然棋士御用達だった、なんていうその「偶然の重なり方」はマンガでは許されても現実ではかなり不自然です。そこを、桐山くんが先輩(スミスさんたち)を連れて行ったことによって棋士の皆さまが通うようになる、というのはかなり納得できる設定変更だったな、と思います。
これに通ずるところですが、桐山くんにお酒を飲ませて放置した「悪い先輩」が実はイコール、スミスさんたちだった(本人たちに悪気はない)という偶然の置き方についてもまた、上手いなあ、と思いました。こちらは現実でもありがちな偶然(というよりは視点の違いで起きる解釈違い)かな、と思います。
後編でもひとつ挙げるのならば、妻子捨て男こと川本家の父(演じている伊勢谷友介さんがまた凄いんだこれが!)に対する桐山くんの対応。
対応、というか、対応に対する川本家の反応ですね。原作マンガでは、最終的な決断と解決はあかりさんたちが自分でやるものの、桐山くんの華麗なぶちのめし方も感謝されてるんですよね。でもあれって相当にデリカシーのないことをしているわけで、原作マンガのあのノリでなら許されるけれど、現実でやられたらそりゃあ血縁者としてはたまらないよな、と思うんです。そこも濁さずにきちんと描いて、そして桐山くんをきちんと謝らせる、というところまで始末をつけているのは素晴らしいな、と思いました。

もうひとつ、この映画を高く評価する大きなポイントは「原作マンガの描いている画角にこだわっている」というところです。
ちょっとしたしぐさとか、人物の顔をどの方向から撮るかというのを、かなり原作マンガに照らし合わせて決定しているな、と思いました。
「それマンガで見た、あのコマだー!!!」というのがいくつもあって感動しました。
一番テンション上がったのは桐山くんのお家に押しかけた香子さんが、お風呂で足を温めているところ。脚の伸び方も髪の押さえ方も完璧ですげえええ、と思いました……!そして全編通して、有村架純ちゃんの演技とても良かったです。

島田さんと後藤さんの対局をガッツリやってくれたことも、島田さんと宗谷の対局もしっかりやってくれたことも、物凄く良かったですね……、骨太に仕上がっていました。
この大人の男性陣の素晴らしいことといったら!佐々木蔵之介さんはもう素晴らしく色気があって島田さんの幸が薄そうなところもちゃんと表現していて惚れるしかなかったですし、伊藤英明さんは私が今まで見てきた伊藤英明さんの中でダントツのはまり役だと思いました(あくまで個人的見解)。

もっともっと語れるんですが、ちょっと長くなりすぎるのでこのあたりにいたしますね……。
前編・後編に分かれているということでなかなか観に行きづらい映画にはなっていたのかな、とは思いますが、作品としては本当に良い映画になっていたと思います。
もう一度言いましょう。

神木隆之介は神の子だ。

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プロフィール

紺堂カヤ(華夜)

Author:紺堂カヤ(華夜)
文筆家。
日々悪戦苦闘、ただしマイペースに。
文学と声をこよなく愛する。
二つ名は「筆舌破天候ガール」
創作サークル「つばめ綺譚社」にて小説を書いています。
また、クラウドゲート㈱のWTRPG「ファナティックブラッド」にてシナリオをリリース中。

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